德川家康公が再建「臨濟寺」
2011年07月17日
德川家康公が1582年に復興・整備、本堂の再建した寺「臨濟寺」。
ここには今川氏輝公・義元公の墓所でもあり、歴代の今川当主の位牌が
安置されている。
この寺には今川義元公の教育係であった「雪斎和尚」がいた。
その雪斎を德川家康公の幼き今川人質時代に今川義元公は
家康公(竹千代)の教育係としていたとされている。
「 あ 」
「 うん 」
德川18代当主「德川恒孝」さんが言っておりましたが
将軍になった後も、家康公はこの門の前を通る際は馬から降りて
一礼をして通るほど大切にしていたらしい。
臨濟寺の和尚曰く、德川家康公はこの浅間山全体を霊山として
敬い上げ奉り、信心深く崇めていたそうである。
それと、一説には雪斎から伝授された戦略があればこそ、
天下を取る事ができたとも言われているので、恩師へ対する
敬意の礼も含まれていたのであろうか、お聞きしたいものである。
德川家紋「三つ葉葵」
本堂へ向かう階段
ここが德川家康公が立てた本堂である。
家紋がバッチリ彫ってある
この奥に雪斎が幼き家康公(竹千代)に教授した部屋がある。
浅間山の傾斜を上手く利用して作られた。
今川義元公の兄氏輝公の墓がここにある。
こちらは太源雪斎和尚の墓
現在もなお、静岡市と民をこの位置から見守っている
桶狭間で敗れた、今川義元公の遺骸は大岩の「天沢寺」に葬られたが
明治37年に廃寺となりここ「臨濟寺」に改葬された。
義元公の廟は山門をくぐって左側にある。
毎年5月19日の命日に公開される。
ここには今川氏輝公・義元公の墓所でもあり、歴代の今川当主の位牌が
安置されている。
この寺には今川義元公の教育係であった「雪斎和尚」がいた。
その雪斎を德川家康公の幼き今川人質時代に今川義元公は
家康公(竹千代)の教育係としていたとされている。
「 あ 」
「 うん 」
德川18代当主「德川恒孝」さんが言っておりましたが
将軍になった後も、家康公はこの門の前を通る際は馬から降りて
一礼をして通るほど大切にしていたらしい。
臨濟寺の和尚曰く、德川家康公はこの浅間山全体を霊山として
敬い上げ奉り、信心深く崇めていたそうである。
それと、一説には雪斎から伝授された戦略があればこそ、
天下を取る事ができたとも言われているので、恩師へ対する
敬意の礼も含まれていたのであろうか、お聞きしたいものである。
德川家紋「三つ葉葵」
本堂へ向かう階段
ここが德川家康公が立てた本堂である。
家紋がバッチリ彫ってある
この奥に雪斎が幼き家康公(竹千代)に教授した部屋がある。
浅間山の傾斜を上手く利用して作られた。
今川義元公の兄氏輝公の墓がここにある。
こちらは太源雪斎和尚の墓
現在もなお、静岡市と民をこの位置から見守っている
桶狭間で敗れた、今川義元公の遺骸は大岩の「天沢寺」に葬られたが
明治37年に廃寺となりここ「臨濟寺」に改葬された。
義元公の廟は山門をくぐって左側にある。
毎年5月19日の命日に公開される。
Posted by 家康楽市 in 浜松出世城 at 08:47│Comments(0)
│徳川宗家
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